海外の戦後のワクチン開発
犬に対する減毒ワクチンの接種偶変(副作用)として最も問題視されていたのは、ワクチンに含まれる狂犬毒によって狂犬病が発生するという、接種固定毒狂犬病であった。また、ワクチンに含まれる神経物質が原因とされる、注射後の麻痺も確認されていた。アメリカでは1925年時点で1/62の割合で接種犬の固定毒発病が、オーストラリアでは1938年時点で接種犬の0.20〜0.25%の接種麻痺が、日本では1951年時点で接種犬約百万頭中0.006〜0.080%の接種偶変が報告されていた。
1939年頃からアメリカでは、発生する副作用をより少なくするため、犬に用いるワクチンは生毒を含まない、死毒または無毒化病毒に制限され、主に石炭酸またはクロロホルム死毒ワクチンが使用されるようになった。
ヒトに対する減毒ワクチンについても、接種偶変の発生は免れないものと認められ、その割合は0.08%ほどであると報告されていた。また予防注射が無効な例も多く、例えばPasteurワクチンを予防接種したとしても、頭部咬傷を受けた78人の患者のうち1人は狂犬病が発生していた。この他、Pasteurワクチンは不活化ウイルスと生ウイルスの混合ワクチンであることから、長期保存が容易ではないという問題点もあった。
石炭酸(フェノール)ワクチン
Fermi, Sempleにより、固定毒家兎脳の乳剤にフェノールを加えることで、Pasteurワクチンに含まれる生きたウイルスを部分的あるいは完全に不活性化することができることが示された。
1908年、Fermiは固定毒家兎脳の10%乳剤に1%フェノールを加え、1〜10日間感作させ無毒化したもので、犬の予防として3回皮下注射を推奨した。バーベスは、このワクチンは全く無毒ではなく脳内接種するとなお毒性が証明されることから減毒液であると主張し、血清との併用を推奨した。
またFermi法は改善され、1%フェノールを加えた60%グリセリン液で25%乳剤を作り、18〜20℃で24時間感作させて無毒となし、更に食塩水で3倍稀釈してワクチンとする方法がイタリアで多く利用された。犬の予防のためには5〜15ccを 皮下注射する必要があった。
1911年、Sempleはインドにおいて、狂犬による咬傷を受けたヒトに対するワクチンを開発した。1%フェノールを加えた8%固定毒乳剤 を37℃で24時間感作させ無毒化し、食塩水で倍量に稀釈してワクチンとした。本法はアメリカのヒト用石炭酸不活化ワクチンの基礎を担った。
一方で、フェノールはタンパク質の構造をゆがめ、狂犬病ウイルスの抗原性を破壊してしまうという問題点があった。
Myelin free ワクチン
成体哺乳類の神経組織を原料として使用する従来のワクチンでは、副作用としてmyelin(ミエリン)感作、アレルギー性脳脊髄炎,中枢神経系における脱髄病変などを引き起こすことがあった。1940年代に広く臨床的に注目されるようになり、これを解決するべくmyelinを含まないワクチンの研究が急がれた。
1931年Ernest W Goodpasture により、ニワトリ胚由来の狂犬病ワクチンが開発された。1950年代から1960年代にかけてヒトに対する接種試験が行われたが、効力が信頼できないことから最終的に中止となった。また、アヒル胚由来の狂犬病ワクチンが1950年代に開発された。
細胞培養ワクチン
ウイルスの培養方法として、動物の細胞にウイルスを 接種して培養し、これを不活化・精製してワクチンとする『細胞培養ワクチン』が、ポリオワクチンの開発において初めて実用化された。これを受けて、狂犬病ワクチンの開発においても細胞培養を用いたウイルスの培養が研究された。
1968年 固定株CL-60(Street Alabama Dufferin狂犬病ウイルス分離株由来)を用いたPHKCV(ハムスター腎細胞ワクチン)が認可 @カナダ
1971年 Vnukovo-32株(ハムスター腎臓一次細胞適応後のSAD由来)を使用したPHKCVが生産 @旧ソ連
1974年 Pasteur Virus(PV)を用いた牛腎臓胎児細胞狂犬病ワクチンが開発、認可 @オランダ
ヒト2倍体細胞株 WI-38を用いたHuman Diploid Cell vaccine (HDCV) を副作用が少ないことからWHOが認可
1978年 Pitman-Moore株(PM)を用いた犬腎臓細胞狂犬病ワクチンが開発、認可 @オランダ
1980年 リン酸アルミニウムに吸着させ、凍結乾燥させたPHKCVが認可 @中国
1985年 アフリカミドリザル腎臓細胞から樹立したVero細胞を用いて、精製Vero細胞狂犬病ワクチン(PVRV)が認可 @ヨーロッパ
日本における戦後の承認ワクチンの推移
ヒト用予防接種製剤の変遷
ヒト用のワクチンについては、戦前~戦後すぐの間は、Pasteur由来株や日本由来株を用いた稀釈減毒ワクチン/乾燥減毒ワクチンが製造されていた。GHQの指導により不活化ワクチンへの移行のために試験が行われた。最終的に関係者の合意が得られ、1952年4月から一斉に、動物用狂犬病株でもある西ヶ原株を接種した羊などの脳乳剤の不活化によるSemple型不活化ワクチンへ切り替えられた。
一方、同時期の1950年の狂犬病予防法の施行を契機に狂犬病が減少し、1956年の人での発生および翌年の動物(猫)での発生を最後に現在まで清浄性を保っている。狂犬病の無発生は、透明感のないワクチン(脳組織20%を含む)を多量に接種することや副反応があることに対する予防接種不要論を引き起こした。
これに対してワクチン改良が進められ、ヒト用ワクチンについては1971年にはマウスの脳乳剤を使用したものに変更され、1980年からは乾燥組織不活化培養ワクチンが実用化され現代にいたっている。
現在のヒト用予防接種製剤(2022)
ヒト用狂犬病ワクチンは、日本では精製ニワトリ胚細胞ワクチン(PCECV)を採用しており、その使用用途によって曝露前ワクチン接種と曝露後ワクチン接種に分けられる。
曝露前ワクチン接種とは、犬などに咬まれて狂犬病に感染する前に予防接種を受けることを指す。狂犬病の流行地域に渡航する場合や、動物との接触が避けられない、又は近くに医療機関がないような地域に長期間滞在する場合、渡航前に予防接種を受けることが推奨されている。曝露後ワクチン接種とは、狂犬病発生地域で犬などに咬まれて狂犬病に感染した可能性がある場合に、発症を予防するためにワクチンを接種することを指す。犬やコウモリ等による咬傷(曝露)を受けた際は出来るだけ早く接種を開始する必要がある。
日本で医薬品として承認されているワクチンは2種類である。
● KMバイオロジクス株式会社「組織培養不活化狂犬病ワクチン」
ニワトリ胚初代培養細胞に馴化した狂犬病ウイルス(HEP Flury株)を、伝染性の疾患に感染していない鶏群(SPF鶏)から採取した発育鶏卵のニワトリ胚初代培養細胞で増殖させ、得たウイルスをβプロピオラクトン0.02vol%で不活化し、濃縮・精製し、安定剤を加え分注した後、凍結乾燥したものである。
曝露前接種では1.0mLを1回量として、4週間隔で2回皮下注射し、更に6~12ヶ月後1.0mLを追加する。このため、渡航約6ヶ月前から接種を開始する必要がある。曝露後接種では1.0mLを1回量として、その第1回目を0日とし、以降3、 7、14、30及び90日の計6回皮下に注射する。
● グラクソ・スミスクライン株式会社「ラビピュール筋注用」
狂犬病ウイルス(Flury LEP株)をニワトリ胚初代培養細胞で増殖させ、得られたウイルスをプロピオラクトンで不活化した後、濃縮・精製し、安定剤を加え充填・凍結乾燥したものである。
曝露前接種では1.0mLを1回量として、適切な間隔をあけて(0 、7 、21日又は 0 、7 、28日)の計3回筋肉内接種する。このため、渡航約1ヶ月前から接種を開始する必要がある。曝露後接種では1.0mLを1回量として、適切な間隔をおいて 4 ~ 6 回筋肉内に接種する。接種日の目安は以下の通りである。
動物用予防接種製剤の変遷
動物用ワクチンについては、1951年より、西ヶ原株を接種した山羊の脳乳剤を使用したSemple型不活化ワクチンが実用化されたが、ワクチン中の山羊脳組織に由来するアレルギーなど、深刻な副作用のリスクもあった。
1950年代のワクチンの副作用に対する懸念や予防接種不要論の流れを受け、動物用ワクチンは、1978年からは山羊/マウス脳乳剤を精製した不活化ワクチンに移行した。精製ワクチンの蛋白窒素含有量は従来の10分の1以下の200μg/mL以下となり、副作用を減らすことに成功している。この時の接種方法は1投与量2mLを6ヵ月ごとに注射するものであり、実際に犬に対して年2回の狂犬病ワクチン接種が義務付けられていた。1984年以降は組織培養不活化ワクチンに移行し、年1回接種となった。
現在の動物用予防接種製剤(2022)
● 狂犬病組織培養不活化ワクチン(シード)
シードロット規格に適合した狂犬病培養細胞馴化ウイルスを同規格に適合した株化細胞で増殖させて得たウイルス液を精製し、不活化したワクチンである。
犬及び猫の皮下又は筋肉内に 1mL を注射する。日本では厚生労働省が定める狂犬病予防法により、生後3カ月以降のすべての犬に対し、年1回のワクチン接種が義務付けられている。