Pasteurワクチン
日本におけるワクチン開発を語る前に,まずは世界における初めての狂犬病ワクチンの開発について言及する。
動物に対するワクチン接種としては、1881年、Galtierが山羊に対し狂犬病犬の唾液を静脈内注射して予防を試みたものが最初であり、その後狂犬病犬の延髄乳剤を稀釈濾過して静脈内接種する予防法を考案した。
Louis Pasteurは1883年、狂犬病毒を兎で繰り返し継代することでその病原性を減弱させ、さらに発症までの期間を安定させた固定毒を作製した。固定毒を感染させたウサギの脊髄を水酸化カリウムで乾燥させることで、減毒を行っていた。 1885年5月2日には狂犬病疑いだった61歳の男性ジラールに対し、6月22日には狂犬病疑いの11歳の少女ジュリー・アントワネット・プーゴンに対し、それぞれ弱毒化狂犬病病毒が注射された。この記録はパスツールの実験ノート上にとどまっており、狂犬病そのものの診断や注射後の予後に関して発表に適さない部分があったのであろうと推測されている。このため、これらの患者は初めて狂犬病ヒト用ワクチンを投与された、『パスツールの私的(秘密の)患者』であると言われている。 1885年7月6日、Pasteurのチームは、9歳の被咬傷者Joseph Meisterに対してワクチンを用いた狂犬病予防を開始し、発症予防に成功した。これが、公式の記録として発表されている、人間に対して行われた狂犬病ワクチンの初めての投与である。具体的な手法は以下の通りである。
(画像:Louis Pasteur)
ヒトでのワクチン接種成功を受け、この固定毒を用いた予防法が、Pasteur自身やHöygesらにより開発された。
Pasteurは、危険性の少ない変異毒株として家兎固定毒を作り、更に病原性を激弱させる目的で、感染脊髄に階段的乾燥法を施した。これにより、適切な弱毒株である乾燥脊髄苗、いわゆるPasteurワクチンが開発された。パスツールの方法は、狂犬病ワクチンの調製に大きな変更が加えられるまで、半世紀以上にわたって使用された。
栗本ワクチン
1893年3月より長崎県長崎市内で狂犬病が流行し、当時第五高等学校医学部長崎病院の内科医長の栗本東明氏により、撲殺犬から得られた脳脊髄を用いてワクチンが開発され、以下の手順(脳内接種法)で家兎を用いてその効果を研究した。
【脳内接種法】
- 脊髄含有病毒量の均一化を図るため、450匁〜500匁の体重の兎を揃える。(1匁=3.75g)
- 体重・体温測定後、兎を固定台に乗せ、四足を固定する。
- 頭毛を二銭銅貨大に楕円形切除して、小刀で頭蓋皮膚を前後方向に約2cm切開、骨膜とともに頭皮を左右に排除して骨を曝露し、直径約5mmの穿顱術により、脳硬膜を傷つけないように円形孔を開ける。
- 狂犬脳または感染兎脳から作成した接種液を、注射器を用いて頭蓋腔内に注入する。
- 注入後頭蓋皮膚を引き寄せ2針縫合後ヨードホルムを塗布する。
動物・ヒトに対する効果の実証
また、狂犬病ワクチンの曝露前接種について、動物が免疫を獲得しているかを精査する目的で免疫獲得立証試験が実施された。弱毒注射液を暫時に毒力強度を増強しつつ、15日かけて兎2頭の左右の臀部に毎日0.5gずつ注射し、15日目を持って予防注射完了とした。注射処置群(n=2)と無処置群(n=2)を対象に狂犬病毒を硬膜下に接種させたところ、処置群のみ耐過した。無処置群は特徴的症状を発症したのみならず、無処置の後死亡した兎の腸管から作製した注射液を健康兎腸内に接種したところ、狂犬病症状を発症し死亡した。これにより、弱毒注射を受けた動物は狂犬病に対する免疫を獲得すること、狂犬病に罹患した兎が死亡した後も毒性が残っていることがわかった。
個体死亡後も狂犬病毒性が維持されることについては、栗本氏が実施した『脳内接種試験』(狂犬を撲殺して27日後、その狂犬毒を6頭の兎に移植し、5頭が発症後14-18日で死亡したという試験)においても、狂犬毒が個体死亡後1ヶ月近くその毒性を維持することが示されている。
これを踏まえ、健康なヒト(n=5)に対してワクチンの曝露前投与を行ったところ、異常反応障害を来さず経過したことから、咬傷を受けてから投与する曝露後免疫のみならず、未だ咬傷を受けていない者の予防的注射法にも利用できることを報告した。
(画像:栗本東明氏の墓)
ヒトに対するワクチン接種例
1894年、日本において初めての被咬傷者に対する曝露後接種が実施された。同年8月12日に咬傷を受けた患者に対し、10月18日から11月6日の20日間に渡り14回の注射が行われた。
1895年2月28日から7月8日の間、長崎県内で咬傷を受けた32名の患者にワクチンの曝露後接種を実施したところ、途中脱落者7名を除く25名は5ヶ月経過後も発病せず、ワクチンによる発症予防が成功したと実証された。確認された副作用としては、注射部位の充血腫脹、軽微疼痛、鼠径リンパ節腫脹などいずれも軽症であった。