概要
GHQからの要請を背景に、農林省衛生課の田中良男氏が中心となって法律の原案を作成した。各所で調整を行いながら獣医師であった原田雪松議員による議員立法により、狂犬病予防法は制定された。
昭和23~24年と続いた狂犬病の大発生はGHQ当局にとっても重大関心ごとであった。しかし、GHQ関係者の意図に反し、防疫活動が低調に推移し、総司令部公衆衛生福祉局局長から「狂犬病予防対策確立について」のメモランダムが寄せられた。このメモランダムは狂犬病予防法制定に大きな影響を与えたが、水面下ではGHQから農林省・厚生省(内務省)に強い圧力がかかっていた。
「その後もGHQのビーチウッド博士は種々の会合に進んで出席し、狂犬病の予防撲滅に関し強化推進を直言するなど、厚生・農林両省の対応に不満を漏らし続けていた…(中略)…当時衛生課長に長電話がある時は必ずといっていいくらいに相手はビーチウッド博士で『おどし』『すかし』時としては『哀願』する調子で苦情を訴えた上でより積極的に協力してくれるよう懇願するのが常であった。」と当時原案作成を主導した農林省衛生課 田中良男氏は振り返る。
ビーチウッド博士(GHQ公衆衛生福祉局)からの懇請を受け、当時主管であった厚生省をさしおいて、農林省畜産局衛生課が狂犬病予防法の制定に協力することとなった。衛生課長も再三拒否したが、GHQの訴えに根負けした形で狂犬病予防法の原案作成に携わることになったのである。
畜産局衛生課長は渉外業務などに追われていたため、当時家畜防疫班長であった田中良男氏が原案作成を担当した。
GHQ ビーチウッド博士には、衛生課長からの依頻で法律案の原案作りにあたることを告げ、家畜防疫の一般原則や狂犬病の特性、サムズ准将からの覚書の趣旨等を尊重して作業に当るので細部や字句等は一任して欲しいと申し入れ、作業に入った。当時、狂犬病が流行中であった上、GHQの特別な要請があったことから、短期間で仕上げられるよう原案作りは大変急いで行われた。
防疫の一般原則を骨子として、日本の公衆衛生や狂犬病防疫の特殊性を加味し、原案作成は行われた。また、当時予算を新たに確保することが困難であったため、既に制定されていた家畜伝染病予防法施行のための防疫費の枠内で運用できるように仕組み、原案を仕上げ
粗案ができあがったところで、田中氏は原田雪松議員(獣医師)と意見調整を行い、農林省内の関係部課から了承を得た。その後、国会内の法制審議当局に出頭し、法律案としての仕上げを行った。なお、この段階から国会提出までの間、厚生省は法律案に関する資料集めから、必要とされる政令案・省令案に至るまで、積極的に協力していた。
狂犬病の流行が続いていることから制定が急がれるとして、政府提出の法案とするには審議のための時間的余裕もないため、(※)議員立法が選択された。
法制局の審理等ののち、厚生委員会で議論がなされ、衆議院・参議院で議論が行われた。原田議員の提案理由の説明における情熱、迫力に満ち、理路整然とした論理は全議員を魅了し、異例の速さで審議が行われた。昭和25年(1950)7月28日衆議院通過、同年7月31日参議院を通過・可決され、狂犬病予防法の制定にいたった。
(※)議員によって法律案が発議され、成立した法律=議員立法、内閣が法律案を作成して国会に提出する=内閣立法
昭和4年に狂犬病予防に関する主管は内務省に移管したものの、狂犬病予防法の原案作成は農林省が行った。狂犬病予防事務の内務省移管につながった内務省と農林省が対立する時期もあったが、原案作成に携わった農林省衛生課の田中良男氏は下記のように述べている。
”この大成功を残し得たのは法律を拠り処として厚生省と各都道府県の関係部局が進めた適切な運用と日本獣医師会ならびに全国の獣医師諸君が果した不断の精進の結果に外ならない.” ー田中良男(農林省衛生課)
狂犬病予防法制定に尽力した農林省をはじめとし、厚生省、都道府県、獣医師が一丸となって、狂犬病対策に奮励努力した結果、日本における狂犬病清浄化がなされたのである。
参考文献
1) 田中良男. “狂犬病予防法の制定をめぐる想い出の数々”. 日本獣医師会. (参照 2022-09-01)
2) 田中良男. 世界における家畜伝染病と国際家畜防疫(Ⅰ). 日本獣医師会誌. 1988, 33, p.503-508.
3) 四宮義和. 「狂犬病」撲滅の立役者原田雪松. 大塚薬報. 2008, 7・8月号, p.4-15.
4) 池本卯典・佐々木典康・四宮義和・清水一政. 原田雪松議員による狂犬病予防法の議員立法その後書. 日本獣医史学雑誌. 2017, 54, p.60-65.
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